ふぐの祖先
1500~3500万年前に【さばふぐ】の祖先が、そして150~200万年前に【とらふぐ】の祖先が発生した。
(「石川新情報書府」参照)
縄文遺跡からふぐの骨が出土
千葉県、山口県など日本各地の縄文時代の遺跡からふぐの骨が出土されました。
当時の人々が食していたことが推測されます。
「日本書紀」にふぐの記述
「日本書紀」とは、奈良時代に成立した日本の歴史書で、日本に伝存する最古の正史です。
その「日本書紀」の斉明天皇の項に『出雲国の浜辺に雀魚(ハリセンボン)が打ち上げられた』の記述があります。
「本草和名」にふぐの記述
「本草和名」(ほんぞうわみょう)とは、日本現存最古の薬物辞典(本草書…薬となる食物や鉱物について書かれた書物)です。
そこに、『布久』(ふぐの当て字)の記述があります。
「倭名類聚鈔」にふぐの記述
「倭名類聚鈔」(わみょうるいじゅしょう)とは、平安時代中期につくられた辞書です。
そこに、『布久』(ふぐの当て字)の記述があります。
豊臣秀吉の「河豚食用禁止の令」
文禄・慶長の役で下関に集まった武士団がふぐを食した際、毒にあたり落命者が続出したことから、豊臣秀吉は「河豚食用禁止の令」を発布しました。これが我が国最初の河豚食の取り締まりだと言われています。秀吉はフグの絵を描いた立て札に「この魚食うべからず」と、ふぐ禁止令を出しました。
江戸時代の「河豚食用禁止の掟」
江戸時代に入り幕府が成立した後も、ふぐ食の禁止は引き継がれました。中でも、尾張藩と長州藩では厳しい取り締まりが行われていました。本場長州藩では、河豚中毒死した武士に対して、家禄没収や家名断絶という措置を定めていました。また、 尾張藩の「盗賊之外御仕置御定」には『河豚魚致売買候者等咎品之事 河豚魚 捕来売捌候漁師 買取売捌候肴売 買請給候者 押込五日 右魚 貰ヒ請給候者 押込三日』との記述があります。
河豚にまつわる俳句
松尾芭蕉は河豚の句をいくつか詠んでます。
《あら何ともなやきのふは過ぎて河豚汁》
《河豚汁や鯛もあるのに無分別》
小林一茶の俳句に、河豚についての句が残ってます。
《鰒(ふぐ)食はぬ奴には見せな不二の山》
《五十に鰒の味を知る夜かな》
幕末期のふぐ
賀屋恭安(長州藩侍医)が日本史上初めて著した河豚の専門書「河豚談」を著しました。
吉田松陰が「河豚を食はざるの記」を記し、藩のふぐ食禁止令を守ろうとする姿勢を表明しました。
下関の豪商・白石正一郎の日記(白石家文書)に度々〈ふくの料理〉についての記載があります。
白石正一郎は高杉晋作、伊藤博文、奇兵隊と深く係わり河豚料理を振る舞ったと記されています。
勤王の志士たちがふぐ料理を食べていたことが窺えます。
ふぐ解禁への流れ
明治政府は、明治18年(1885年)「違警罪即決例」の発布しました。そのなかで『河豚を食う者は拘留科料に処す』とふぐ食を禁止しております。
しかし初代総理大臣・伊藤博文の働きかけにより、明治21年(1888年)山口県に限りふぐ食が解禁される流れになります。
これは、下関の春帆楼(しゅんぱんろう)へ立ち寄った際、あいにくの時化のために出す魚がなく、ときの女将がお仕置きを覚悟の上で、ふぐの料理を出したところ、伊藤博文はこのふぐの料理に感激して、ふぐ食が解禁されたというのが今日の通談になっています。
その後、明治25年(1892年)に東京都でも、指定された方法で調理されたふぐに限り、販売と食用が認められます。
条例の基、ふぐが流通
まず昭和16年(1942年 )、法的にもふぐ食が解禁となります。
そして、昭和22年(1947年)商品衛生法が施行されます。『人の健康を損なう恐れがないように処理すること』によって、ふぐの販売が認められるようになります。また、ふぐの取り扱いについては、各都道府県で規定が設けられました。
昭和23年(1948年)、ふぐの取り扱いについて、大阪府で全国に先駆け違反すれば罰則規定のある【条例】が制定されます。
翌年には東京都でも【ふぐの取り扱いに関する条例】が制定されます。以降、昭和56年までに、京都府、愛知県、香川県、宮崎県、熊本県、鳥取県、神奈川県、鹿児島県、高知県、滋賀県、岡山県、千葉県、愛知県、静岡県、奈良県、福岡県、山口県で【ふぐの取り扱いに関する条例】が制定されます。